---第26号特集記事---


― がんと向き合って ―

上野 創(はじめ)氏 (朝日新聞 記者)
(2/2)






闘う意欲を充電させてくれた家族の関係

 病気というのは、自分で受け止めるしかないわけで、誰も代わってはくれません。一人で闘って、一人で死んでいく。ところが、闘病は一人ではできない、と私は思っています。周りの人たちを巻き込みながら、一緒にやっていく。そうでないと抗がん剤の副作用を乗り越えるのは難しかったと思います。父は体が弱いので、もっぱら母と妹がサポートに回ってくれました。それに「妻」という存在ができて、スクラムを組んで闘っていく。

 「自分は今、こんなことを思っている」「こんなふうに辛い」「人が死ぬってどういうことだろう?」「なんで自分は生きてきたのか?」そんな話というのは普段あまりできないし、友だちにもなかなか話しにくいことなんですが、家族であれば、それほど気にせずに、カッコいい言葉ではなくても、素直に自分の気持ちを話せる。「もし治ったら、ああしよう、こうしよう」という希望も一緒にもてる。そういう意味で家族がいるということは大事なことでした。

 抗がん剤の副作用でメタメタになって立ち上がれないくらい苦しいなかで、「でも自分のためだから治療を受けるんだ」と進んでいく。その原動力になったのは外泊でした。「こんなに外泊する人はあまりいないね」と言われるくらい、3週間に1回、治療の合間に家に帰る。「薬が効かない」と言われたときも、やっと副作用が抜けたのに、また副作用の強い治療をしなければならないというときも、自分の部屋の自分の布団で寝て、家族とお茶を飲んだり、好きな時に好きな物を食べて、大きな声で話をし、音楽もイヤホンではなくジャンジャンかけて聴いたりしているうちに、たった2、3日なんですが、気力がわいてくるんですね。「やはりちゃんと治そう。次の治療も大変だけど、なんとかその次の外泊に向けてがんばろう」と。

 そうやって、家に帰っては充電し、また消耗して帰る、という繰り返しの7ヵ月間でした。がんに限らず、万が一入院されることがあれば、可能な限り外泊した方がいいと思います。やはりああいう空間にずっといることは、精神衛生上非常に悪いんじゃないかと私は思いました。

「超大量化学療法」に耐えて

私の場合、「超大量化学療法」というのをやりました。簡単にいうと、3倍くらいの抗がん剤を投与して一気にがんをたたこう、という治療法です。通常、3倍量を入れると副作用が大き過ぎて、死んでしまうそうです。副作用で死なないようにするために、一番大事なのは白血球なんですが、「0」に近くなったら無菌室に入り、あらかじめ採っておいた自分の骨髄液中の「幹細胞」を戻す。それによって回復が早くなる。そういう仕組みの治療が「末梢血幹細胞移植を伴う超大量化学療法」です。

 抗がん剤の副作用はすごく個人差があるんですね。病気仲間が、平気でカップラーメンを食べたり、あっちこっち歩き回ったり、洗濯したりしているのを見て、倦怠感と吐き気でブッ倒れている自分とこんなに違うのか、とそのくらい抗がん剤というのは、人によって副作用の出方が違うんです。

 私は「凶」と出まして、激しい副作用がくる体質だったようです。「3倍の薬を入れたら3倍の副作用が出るとは限らない」と言われたんですが、5倍くらいの副作用が出て、生きる屍のような状態でベッドに横たわっていました。しかもその時、一番なってはいけない肺炎になりまして、肺水腫を引き起こし、敗血症寸前までいって「今夜がヤマです」と言われた経験もあります。この時、思ったのは「ふざけるな! がんで死ぬならまだしも、何で副作用で死ななきゃいけないんだ」。でも治療すると選んだのは自分だし……、いろんなことを思いながら、どっちにしろこんなことでこのまま死ぬわけにはいかないという強い決意で、しかし体はメタメタで、悶々としていた時期がありました。 

“鬱”から学んだこと

 もう一つ大きな試練が“鬱”でした。私は今でも鬱病というものの怖さを実感しています。私は元来楽観的な性格で、わりと無頓着で鈍感なので、あまり精神の微妙さや繊細な病気とは無縁だったんです。抗がん剤の副作用という面もあるのかも知れません。敗血症寸前からどんどん元気になって、薬も効き始めた。「このまま順調にいけば退院にもっていける」というころに鬱になったんです。事態が良くなっているのに気持ちがどうしても落ち込んで「自殺するしか道はない」と思い込んでしまう。これはすごくおかしな話なんですが、まさしくそれが鬱なんですね。頭の中は「死のう! 死のう!」の大合唱で、「ラクに逝くためにはどういう方法がいいか?」なんてことを考えていた時期がありました。       

 がんの問題も大きいんですが、鬱に対処する方法をきちんと考えないとたいへんなことになるんじゃないかと思います。当時、私は精神科の診療を受けることも、薬をもらうことも拒みました。「精神科にかかることは、すごく悪いことなんじゃないか」「精神に影響する薬を飲むなんてとんでもないことなんじゃないか」という先入観で自分の苦しみを深めてしまった面があります。

 全部たな上げして、「自殺なんてしなくてもいいんじゃないか」ととりあえず思えるようになったのは、やはり家族のおかげでした。外泊して、布団に寝ころがって、ふさいでいたら、隣の部屋で女房と母と妹がケーキを買ってきて食べてるんです。「おいしいね、このケーキ。ちょっとそっちも食べさせて」とか、「紅茶はやっぱりアール・グレーだね」とかやってる。そんな楽しそうな雰囲気が「何で自分はここで悶々としてるんだろう。別にダメならダメでいいんじゃないか。何も自分から今ここで死ぬことはない」という気分にさせてくれました。

 「逃げる」「たな上げする」。いつもいつもひとつのことにとらわれていると、どうしても落ち込んでしまうんですね。ですから、どうにもならない袋小路で身動きとれないときには、一度全部たな上げして逃げ出し、また気分を変えて戻ってきて向き合えばいい。鬱で学んだのはそういうことでした。


職場復帰、しかし再発

 退院して、2ヵ月くらい療養させてもらいました。その年は甲子園で松坂投手が大活躍で、どんどん勝ち進むものですから、応援記者として妻が行くことになりました。私は外来に通いながら療養していたものですから、「そろそろ遠出してみたい」と一緒に神戸まで行きました。甲子園の入り口で記者室に向かう妻と別れて、私はバックネット裏でのんびりお茶でも飲みながら観戦しようと思っていたら、携帯電話が鳴って、「手が足りないからすぐに来て手伝え」と呼び出されました。スコアをつけて、松坂投手の記者会見に行って、となし崩し的に職場復帰をすることになりました。そんなに構えずに職場復帰したのはなかなかいいことで、スムーズに戻っていけました。

 ところが、段々仕事が軌道に乗ってきた翌年の4月。毎月受けていた血液検査とCTの後で、主治医の顔色が全然違うんです。再発でした。がんを体験した人には分かってもらえると思いますが、退院した後どう過ごすか。再発におびえながら暮らすわけですが、でもおびえるだけじゃなくて、どう自分の気持ちを立て直して日々やっていくかが問題です。

 最近やっと注目されるようになってきましたが、ほとんどここのところは無視されてきました。医師との関わりは外来だけになってしまう。周りは「治って良かった」と言う。ところが自分自身は「本当に治ったのか? もしかして一時的にがん細胞が見えなくなっているだけじゃないのか。再発してまた同じようになるんじゃないか」そういう不安感をずっと抱えながら、自分で気持ちを切り替えていくしかないわけです。私自身は「仕事を一生懸命やる」ということで克服できるんじゃないかと思ってやってました。

 結果的には一年後に再発。また肺で、手術で取りました。その後、また抗がん剤をやって3ヵ月ほどで退院しました。さらに1年後、2000年4月にまたまた肺に再発し、今度も手術・抗がん剤をやりました。


闘病体験を連載する

 こういうふうに再発を繰り返すなかで、「仕事を一生懸命やる。新聞記者としてのキャリアを積む」これはこれでいいんですが、「自分が生きているからできることはないのか」と考えるようになりました。殺人事件の記事というのは私じゃなくても書けるわけです。自分ならではの文章・記事を新聞に出してみたい。自分のなかでのがん体験を、一回新聞できちんと出してみようと、連載を書くことにしました。

 それまで自分の体験を新聞に書かなかった理由は、批判されるのが怖かったというのがすごくあります。「新聞記者が自分の話を書くなんて」「オレはもっと大変な経験をしたのに、なんでお前ごときがこんな文章を書いてるんだ」というように。それから、プライバシーをこういう形で出すということに対する怖れでした。

 書かない理由を全部払拭できたのは、2回目の再発のおかげでした。「正しいと思うことをちゃんとやればいいじゃないか」と思うことができました。ただ、退院すると嬉しくて遊んでしまうんですね。遊び出すと、向き合っていたときの気持ちをなかなか克明には書けないんです。ですから、入院中に上司や周りに「僕は退院したら、必ずがん闘病体験を記事にするよ」と言いふらし、退路を断ちました。

退院した後、それまで1ヵ月くらい療養期間をもらっていたんですが、その時は「2週間で職場復帰する。復帰したら、他の事は一切しないでその原稿だけに没頭する」というずいぶん身勝手な宣言をしまして、じゃんじゃん書いていこうと決意しました。でも、書けないんですね。体験を日記に書くだけなら別に構わないんですが、新聞という“商品”に載せて人さまに読んでもらうとなると、とてもたいへんな作業です。特に口の悪い上司に「お前の私小説なんか新聞で読みたくない」と言われて、これもまたプレッシャーになりました。

 2ヵ月くらいのた打ち回って書いた文章が「がんと向き合って」という連載です。カッコいいことを書くつもりは全然なかったので、「こんなにだらしなかった。こんなに情けなかった。でも這いつくばって乗り越えました。がんになったみなさん、がんの家族のみなさん、がんばりましょう」というメッセージを込めたつもりでした。

 1年に渡った連載で、手紙が1500通来ました。掲載は神奈川版だけだったのに、これはちょっと異常な反響です。しかも一通、一通全部、ものすごいエネルギーが凝縮された深い内容ばかりでした。それをもとにして私が取材に行って、がん関連の記事を書く。自分の連載とそれから記者として取材に行って書いた記事。神奈川版は地方版で自由な紙面で実験的なこともできますから、もう存分にやりたいようにやらせてもらいました。

 会社に電話がかかってきて「上野さんは生きているんですか?」。私が代わって「上野です」というとビックリして、「ああ、良かった」と、泣いちゃう人がいて、さっきまでそこでコーヒーを飲みながらバカ話をしていた自分としては、非常に申し訳ないような気持ちになったこともあります。

 紙面を通して深い交流ができたんですが、こういうふうにひとつの場・ひとつの時間を共有するというのはすごく貴重なことで、一度「読者交流会」というものを横浜で開きました。僕がどんなツラをしているのか、と興味津々の人が多かったようですが、「こんなに元気なのか」とちょっとガッカリした顔をしてたりして面白かったです。

 そういう経験を通して、自分が生きている意味、自分の体験をどう社会に役立ててもらうか、そんなことをやって参りました。それがこの間本になったわけです。


「治る・治らない」を越えた軸を持つ

  実は今でも腫瘍マーカーの検査を月に1回やってます。ちょっと動いたりするんですね。「がん細胞のせいだけじゃないので、そんなに心配しなくていいですよ」と言われても、「腫瘍マーカーが上がった」という事実を容認するのはすごくたいへんです。「上野さんはがんを克服されて……」とか「がんと正面から強く向き合われて……」とか言われることがあるんですが、そんなことはなくてやっぱり不安は胸の内にいつもあります。腫瘍マーカーが上がると2日くらいは仕事が手につかない、というような状態が今も続いています。

 でも、そういう不安や辛い体験も全部私の人生でして、私が引き受けるしかない。誰も代わりにこの人生をやってくれる人はいないのですから、それらとどうやって付き合っていくか、それが今の課題です。がんというと「治るか、治らないか」というところが患者にとっては大事です。それは当たり前なんです。でも、それとは違う次元で、治る・治らないを越えた軸を自分の中でつくって付き合っていければ、それはがんに限らず「試練をどう受け止めるのか」、ということになるのかなと思っています。ちょっと偉そうですけど、そう常に思っているところです。なかなか弱っちいのでそうもいかないんですが……。

 私自身は今、「幼稚園と保育園が一体になった施設が品川でオープンした」とか、普通の社会的な記事を書いてます。と同時に、関心の方向は「人が生きるとはどういうことで、死ぬとはどういうことか」ですから、「困難をかかえながらも生きていくことの意味は何か」といったテーマについても同時に取材して書いてます。

「聴きあう」ことで支えあう社会を

最近、すごく関心をもっているのは、「聴く」という行為のことです。傾聴ボランティアを神奈川県でやっている人がいました。「人の話を聴くことによって相手を援助する」という考え方です。それをボランティア団体としてやっていく。私自身は初めて聞いたときに、「話を聴かせてください。それによってあなたを援助しましょう」なんていうのは、余計なお世話であって「真意はほかにあるのでは?」と半信半疑でした。ところが取材に入ってみると、自分の気持ちや思っていること、体験を聴いてもらうことはものすごく大きなエネルギーになって、またカタルシスにもなるんですね。聴いてくれる人がいなければ、思いを表に出すことはできない。それは多分、家族であっても、家族だからこそ話せないこともいろいろあるわけで、第三者が行って、患者の、もしくは老人の苦しみに耳を傾ける、そういう行為にはすごく意味があるんだなということを取材を通して知りました。

 ホスピスで何人かの末期患者に会いました。その人たちが共通して言ったことは「気持ちをどう整理したらいいのかが分からない。死そのものが怖い。明日、自分がどうなるか、半月後どうなるか。怖い」ということでした。でも、そういう苦しみを医療者が薬を使って払拭することはできません。じゃあ、何だったらできるのか? 「その苦しみを聴くことで和らげられる」――。それが傾聴ボランテイアを主催している方の考え方でした。事実、もうパニック状態でホスピスに入ってきた人に聞いたんですが、彼女は「自分が話していることは自分も聴いているんですね。そうすると、私はこんなふうに思っていたんだ。こういうことが辛かったんだ。それでパニック状態になっていたということがやっと分かった。自分の気持ちが整理されて、落ち着いた。今すごく幸せなんですよ」という言葉を私に残して亡くなっていったんです。

 「“聴く”という行為は、別に末期患者との交流だけじゃなくて、子どもだって、お父さんだって、お母さんだって聴いて欲しい。でも、今聴いてくれる人がいない時代になっているんです」と主催している方はおっしゃっていました。“聴き合う社会”ができればいいなと。誰でも自分の人生というのは、自分で引き受けるわけですが、同時に相手のことを聴いて、それによって支えあう社会になればいいんじゃないかということを、半年間の取材中に2人で随分話をした覚えがあります。


 つたない話に1時間も耳を傾けていただきましてありがとうございました。傾聴していただいたのは私の方でして、皆さんと今日こうしてここにいられることを嬉しく思います。




CLOSE